これまで重くのしかかっていた、“ねばならない”の重しを取り除く。

お盆休みも終わりました。

私は夫婦で3泊4日で九州を車で一周して、とても充実した時間となりました。

福岡を出発して、熊本、鹿児島、宮崎、大分、と駆け足でまわったので、

まだまだ一部しか良さは分かっていないと思いますが、

それでも九州の色々な良さを感じることができ、楽しかったです。

 

ちょうど8月の頭に主人の実家の北海道へ行っていたので、

そのコントラストが激しく、同じ日本の中でも北と南を感じることができて、

日本の多様さを感じました。

鹿児島や宮崎なんかへ行くと南国を感じます。

 

北国の森は、シンとした透明感や神聖な感じを受けるのですが、

南国の森は、もりもり、にょきにょき、ぐんぐん、木が生えていて、

命があちこち噴出しているような、そんなエネルギーを感じました。

意味わからない表現の仕方ですみません(笑)

 

そして火山の存在でしょうか。

どっしりした形のよい山と周りに広がる平野、そんな地形にいくつか出会いました。

改めて考えると九州は火山が多いのだと気づきました。

阿蘇山桜島、霧島、雲仙岳、、

山に詳しくない私でもいくつか思いつきます。

 

せっかくなので調べてみると、

九州は国内に111ある活火山のうち17もが集まる火山密集域だそうです。

やはりそうなんですね。温泉も多いもの。

 

これは九州の東側にあるフィリピン海プレートが、

南海トラフ琉球海溝から沈み込んでいることで火山ができているのだと。

そもそも日本列島の火山は、

沈み込むプレートから水分が絞り出されることが原因で起きるらしい。

なるほど。知らなかった。

(旅をしたら、その場所の地理や歴史を積極的に学ぶことを心がけようと思っており、

ここにも書いてみました。私の勉強にお付き合いください。笑)

 

f:id:yuki-snop:20180819163159j:plain

 

 

 

 

前置きが長くなりました。

 

前回の続きを書きたいと思います。

 

毎日「忙しい」日々を過ごしていた私は、

突然「忙しくない」日々を送ることになり、

楽しい毎日を過ごしていたのがフェーズ1。

これが前回書いたことです。

 

今、フェーズ1を振り返ると、

この時間は私にとって

「これまで重くのしかかっていた、“ねばならない”の重しを取り除き、

自分の中から湧き上がるものが表に顔を出せるように整える」

という意味があったように思います。

 

会社で働いている時、

自分の精神状態が最も良くなかったひどい時は、

食べることが大好きな私が、何を食べたいのか分からなくなりました。

旅が大好きな私が、どこへ行きたいのか分からなくなりました。

食欲がない、とかいう単純なことというよりも、

何も思いつかないというか、何も考えられない、という感じを味わいました。

 

もちろんずっとそうだったわけではないですし、

悲惨な毎日を送っていたわけでもないです。笑

 

ただ、

「誰かの為に役に立ちたい」とか、

「仕事はちゃんとやらなきゃ」とか、

いろんな、“ねばならない”を自分に課していると、

知らず知らず、自分の想いを置き去りにすることがあります。

それをやり過ぎてしまうと、

自分が何が欲しいのか、何がしたいのか、さっぱり分からなくなってしまうのだと思います。

日々のレストランでメニューを決めるという簡単なことさえ、分からなくなってしまったりするのです。

 

余談ですが、私は

「自分が本当にやりたいことが分からない」というサラリーマンが多いのは、

こういう理由ではないか、と思っています。

私もそうだったから、とても気持ちがよく分かるのです。

 

ただ、社会の中で生きている以上、そういうことも必要だと思います。

だから必ずしも悪いことではなく、バランスの問題だと思っています。

 

社会の一員としてやるべきことをする、ちゃんとする、

一方、自分が本当にやりたいことをする、

このバランスがとても難しいのですね。

 

社会の一員としての自分によりすぎてしまった私は、

自分が本当にやりたいことが顔を出せる状態にするため、

上にのしかかっていた、たくさんのものを、まず取り除かないといけなかったのだと思います。

 

どうやってのしかかっているものを、取り除くのか。

 

具体的には、

「五感を使うこと」

だと思っています。

 

人間が本来持っている感覚をフルに使う。

理性ではなく、五感を使う。

五感が最大限に発揮されると、第六感が働いてくるように思います。

そうやって生き物、動物としての力を呼び覚ます、そんな感覚です。

 

これにはやはり、南米のバックパックは大きな意味がありました。

誰にも何も言われない、なんの制約もないところで、

右に行くか左に行くか、進むかとどまるか、食べるのか食べないのか、

全て全て自分ひとりで決めて、自己責任で毎日を生きる。

 

そうすると、私だけの基準がだんだん出来てきます。

小さなものも大きなものも、色んな「選択」が

その人“らしさ”を形づくっているように思います。

だから、どんなことでも「選択」をすることが難しいときは、

自分自身が置き去りにされている、危険信号なのだと思うようになりました。

 

長くなりましたが、

「忙しくない」フェーズ1を経て、こんなことを学んだように思います。

 

今日はフェーズ1の振り返りで終わってしまいました。笑

 

のんびりいきます♪